歴史と歴史認識について>架空の物語と歴史
歴史は物語です。過去に起こった出来事をつなげ、まとめてつくりあげられた物語です。歴史というからには、その素材はすべて過去に起こった出来事のみであるべきでしょう。ところが、歴史に架空の物語が混ざることがあります。いかにも本当らしい物語が歴史の中に紛れ込み、多くの人々に真実として信じ込まれれることがあります。また逆に、実際あった出来事が架空の物語だと思われてしまうこともあります。歴史家の大胆な推測により、権力者の都合により、あるいは事実の羅列だけではつまらないからなどの理由により、歴史はフィクション化いていくのです。
歴史に架空の物語が混ざることは珍しくありません。むしろ、歴史のほとんどには架空の物語が多かれ少なかれ混じっていると考えた方が良いかもしれません。歴史は過去に起こった事実の羅列だけでは、なかなかうまく成り立たないものです。人は歴史を書くとき、歴史を読むとき、そこに何らかの物語性を求めるのです。
古代の神話が、民族の中で歴史として認識されることがあります。あるいは過去の歴史に架空の物語が混ざっていくことにより、歴史ではなく神話としてみなされるようになることがあります。神話は民族のアイデンティティーとも深く関わっており、歴史と同じく民族にとって重要な意味をもつものです。神話と歴史とは何らかの関連があり、全く無関係とも言い切れるものではありません。全く架空の神話の物語だと思われていたものが、遺跡が出土することで実際にあった出来事だったとみなされるようになることもあります。
人は歴史をひもとくとき、そこに何らかの物語性を求めます。単なる過去の出来事の羅列では退屈で、面白くありません。できればワクワクするような臨場感や、これからの人生に役立つような教訓を得たいものです。そのためには歴史が過去の出来事の羅列を越えた、人々の心を惹きつける魅力ある物語となることが求められます。歴史は、そこに物語性があってこそ面白いのです。
歴史を題材にしたフィクションの物語が多く出版され、人気を集めています。多くの歴史フィクション物語は、実際の歴史記録よりもドラマチックな脚色があってとても面白いのでしょう。それらが歴史的事実と異なることは広く知られていますが、それでも実際の歴史記録よりも多くの人々に読まれています。歴史フィクション物語を読むことで、実際の歴史に興味を持つようになる人々もいます。
人はヒーローをつくりたがります。また人は歴史の中にあこがれの人物を見つけようとします。ひとたび歴史の中でヒーローになった人物には、様々な脚色がつけられます。多くの人々にとって憧れの人物になるよう、あることないこといろいろなエピソードが付け加えられるのです。そうして、歴史の中のヒーローはますますヒーローになるべく、架空の物語が紛れ込んでいきます。
歴史とは何らかの時間による変化や変遷を記録したものをいいます。人々は過去を記憶し、たびたび過去を思い出します。しかし人は往々にして記憶違いをし、また過去のことを忘れます。過去の出来事について人によって意見が対立することもあります。世代が交代するによって過去の記憶が失われ、国家、民族など組織のアイデンティティーが失われることもあります。歴史を残すことは過去を忘れたり、過去について対立したりしないために、また組織のアイデンティティーを失わないために重要です。
認識とは何らかの対象物を把握し、正しく理解することをいいます。歴史認識とは一般には歴史を理解し、把握することをいいます。歴史は誰かが記録したものです。誰かが記録したものですから、歴史はその記録者の主観、思想の影響を受けていますし、またその記録を命じた権力者に都合の良いように書かれています。歴史を正しく認識するためには、歴史そのものが必ずしも正しくないことをあらかじめ理解していなくてはなりません。では、正しくないものを正しく認識する方法はあるのでしょうか。
歴史は戦争の勝者によってつくられます。歴史の多くが、戦争の勝者にとって都合の良いことが多く書かれています。場合によっては、戦争に負けた側がとんでもない極悪人に仕立て上げられていることもあります。私たちは歴史を読むとき、それが戦争の勝者にとって都合よく書かれたものであることを頭に入れておいた方が良いかもしれません。そうでなければ私たちは勝者側に偏った歴史認識をしてしまうことになります。歴史を学ぶときは、敗者側の記録にも目を向け、歴史を両面から把握することが大切です。
歴史の多くは歴史家によって書かれます。歴史家はおびただしい量の情報を収集して、慎重にその信頼性を検証し、何度も検討を繰り返しながら取捨選択し、失われた情報を推測することでバラバラの情報をつなげていき、そうして歴史の全体像を構築してきます。そうやって書かれた歴史書はいわば「歴史家による作品」といってもいいかもしれません。その作品である歴史書は多かれ少なかれ、歴史家の主観、取捨選択によるいびつな情報の偏り、誤情報が混ざっています。それだけではありません、多くの歴史家は自分たちの偏った考えによって歴史を捻じ曲げています。
歴史は物語です。過去に起こった出来事をつなげ、まとめてつくりあげられた物語です。歴史というからには、その素材はすべて過去に起こった出来事のみであるべきでしょう。ところが、歴史に架空の物語が混ざることがあります。いかにも本当らしい物語が歴史の中に紛れ込み、多くの人々に真実として信じ込まれれることがあります。また逆に、実際あった出来事が架空の物語だと思われてしまうこともあります。歴史家の大胆な推測により、権力者の都合により、あるいは事実の羅列だけではつまらないからなどの理由により、歴史はフィクション化いていくのです。
歴史と宗教とは切っても切れない密接な関係を持ちます。宗教は歴史に影響を与え、また歴史は宗教に影響を与えます。宗教が人々に影響を及ぼすことで、歴史が大きく変化することがあります。かつて権力者によって弾圧された宗教が、後の時代に広まることで歴史が塗り替えられることがあります。対立する宗教によって歴史認識が大きく異なることがあります。歴史家が特定の宗教を信じていれば、その歴史書はその歴史家が信じている宗教の影響を強く受けていることでしょう。歴史は宗教であり、宗教は歴史です。
歴史は権力者がその権力を正当化するために、都合よく書き換えられることがあります。権力者にとって都合の良いことが強調され、都合の悪いことは隠され、あるいは消されます。また、歴史の専門家として権威ある人の言うことは全て正しいと思われがちです。権威ある歴史家が残した歴史書にも、偏見や間違いが含まれています。権力者や権威が示した歴史がすべて正しいとは限りません。歴史書を読むときは、権力者の都合による改変や権威ある歴史家の偏見・間違いが必ずどこかあると考えた方がよいでしょう。
文化とは人間がつくる学問や宗教、建築、芸術や生活様式などの精神的な産物です。人が集まるところに文化は生まれ、文化が発展し、文化が多様化し、あるいは文化が衰退していきます。歴史を学ぶと様々な文化が生まれ、発展し、影響を与え合い、また衰退していっていることを知ることができます。歴史を学ぶ際には、その文化とその変遷にも着目しましょう。文化はまた地域や民族の特徴を私たちに教えてくれます。人々は文化の中で育ち、文化をつくり、文化を変化させ、そして文化を壊していきます。
民族とは何かを共有する人々の集団です。民族が共有する「何か」とは言語、生活様式、価値観、習慣、宗教、歴史などです。民族は民族独自の歴史・歴史観を持ちます。隆盛する民族の歴史がその時代の歴史となり、衰退する民族の歴史は消されていきます。世界の歴史はさまざまな民族の隆盛と衰退の記録でもあります。歴史を学ぶ際には、民族の隆盛と衰退にも着目し、歴史と民族の興亡がどのように影響を与え合っているのかを考えていくのも面白いでしょう。
歴史を学ぶことで私たちは何を得ることができるでしょうか。歴史は私たちに何を教えてくれるでしょうか。歴史は私たちに道徳的であれと教えてくれるのでしょうか。それとも、歴史は私たちに非道徳であれと教えてくれるのでしょうか。歴史を学んだからといって人々が道徳的になるとは限りません。しかし歴史は常に全く非道徳的というわけではありません。歴史にはさまざまな道徳的教訓が隠されています。一方で歴史的事実が多くの人々の道徳的観念から見て受け入れられないこともあります。
歴史を学ぶと、様々な地名を知ることになります。有名な場所は観光地としても人気を集めやすいものです。歴史上重要な遺跡、史跡は重要な観光資源になります。魅力的な歴史は観光資源の価値を高めます。歴史のある街は味わい深く、その地を訪れることで教科書で歴史を学ぶよりも多くの気付きを得ることができます。歴史を大切にし、また歴史上重要な史跡を保全していくことは、その地域の観光資源を増やしていくことにつながります。
歴史はいろいろな学び方があります。学び方によって歴史は違った見え方がしてきます。例えば一つの歴史上の事件をさまざまな角度から学んでみたり、ひとつの民族、宗教の歴史を学んでみる方法があります。あるいは類似の事件を比較したり、対立する国家、民族、宗教などの歴史を比較していく方法もあります。勝者側の歴史ばかりを学ぶのもいいですが、敗者側の歴史を見ることで新しい発見があるかもしれません。
歴史には様々なウソが散りばめられています。歴史を学ぶとき、私たちは同時に歴史のウソの見抜き方を知らなくてはなりません。歴史は多くの人々の都合によってつくられた複合体です。歴史にウソが混ざっているとき、きっとそのウソを混ぜた人の痕跡が残されているはずです。基本的に歴史は戦争の勝者や権力者、歴史家や宗教家によって都合よくつくられます。でも歴史にウソを書き込むのは彼らだけではありません。
歴史は隠されます。注目される歴史の陰で、多くの歴史が隠されています。権力者や歴史家たちに都合の悪い歴史は意図的に隠されます。大事件があったとき、その周辺の事件は注目されず、事実上私たちの目から隠されてしまいます。歴史を学ぶにあたっては、「隠された歴史」を見つけることも重要です。隠されてた歴史を見つけ出すことによって、今まで見えなかったその時代の全体像が見えるようになることがあります。では、隠された歴史はどのようにすれば見つかるのでしょうか。
歴史から私たちはどのような教訓を得ることができるでしょうか。歴史によって得られた教訓は私たちに役に立つのでしょうか。もしかしたら私たちは間違った歴史の学び方をしてしまい、そのため間違った教訓を信じてしまっているのかもしれません。歴史からどのような教訓を導き出すかによって、私たちの将来は大きく違ってきます。そして、歴史からより良い教訓を導き出すためには、より良い歴史認識を持つことが重要になってきます。
歴史から学び、良い教訓を得るためには、より良い歴史認識を持つことが大切です。より良い歴史認識を持つためには、世の中にある歴史認識のほとんどを信用しないことが大切です。特定の立場から見た偏った歴史認識を信じてしまうと、より良い歴史認識を持つことが出来なくなってしまいます。より良い歴史認識を持つためには、まずは異なる立場から見たさまざまな歴史認識を知り、そのうえで全体をより俯瞰できるような歴史認識を見つけ出していくことです。世の中に良い歴史認識がないのであれば、より良い歴史認識を自ら考え出してみましょう。
私たちが生きる現在も、いずれ過去になります。私たちもまた、歴史を書き残します。できれば、未来の人々がより良い世の中をつくっていけるよう、良い教訓が得られるような歴史を残していきたいものです。良い教訓が得られるような歴史を残すためには、歴史を書き残すときのものの見かた、考え方を見直す必要があります。すなわち、特定の立場から見た偏った歴史を書くのでなく、自分たちの都合の良いことばかり書いて都合の悪いことを隠すのでなく、全体をより俯瞰できるような歴史を書いていくのです。