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2024年9月の2 ウクライナ料理レストラン『ジート』の暗号1、「ジトーミル」市のもう一つの由来

2024年5月に名古屋市にオープンしたウクライナ料理レストラン『ジート Жито』では、無形文化遺産としてUNESCOに登録されたウクライナの「ボルシチ」など、本格的ウクライナ料理を味わうことができます。『ジート』は、ウクライナ語で「ライ麦」を意味します。このレストランが『ジート』(すなわち「ライ麦」)と名付けられたことについて、創始者がウクライナの都市「ジトーミル」市出身であることが関係しています。「ライ麦」と「ジトーミル」市との関係、それはウクライナ料理レストラン『ジート』に秘められた暗号のひとつです。

2024年9月の2 ウクライナ料理レストラン『ジート』の暗号1、「ジトーミル」市のもう一つの由来

「ライ麦」と「ジトーミル」市との関係を知る前に、そもそも「ジトーミル」市はどんな街なのか、その概要と歴史を見てみましょう。
「ジトーミル」市はウクライナ北部にある都市で交通の要衝です。市はジトーミル州の州都であり、同州の文化と教育の中心地です。市の人口は2022年の統計でおよそ26万、ゴム・プラスチック・金属などの軽工業、食品や繊維生産などが主要産業とされています。
ジトーミル州は自然豊かな地で森林が広がっていて、農地はジトーミル州のおよそ52%を占めています。州の主要な輸出産品は農産物や木材、機械設備、繊維などです。
「ジトーミル」市の歴史は古く、設立されたのは884年だとされています。キーウ大公国(882-1240)時代の終わりにはモンゴル・タタール人が襲来します。キーウ陥落とともに「ジトーミル」市はほぼ破壊され廃墟となり、その後も何回かタタール人の襲来による被害を受けました。
モンゴル襲来の後、市は徐々に復興します。15世紀には外敵から守るため強固な城壁が建設されました。
1569年以降になると「ジトーミル」市は、ポーランド・リトアニア共和国の支配下になりますが、1594年には民衆蜂起による大規模な反乱が起きるなどポーランドへの抵抗運動が強くなっていきます。
1648年には、ポーランド支配に対抗するボフダン・フメリニツキーの軍がジトーミルの城を襲撃します。ボフダン・フメリニツキーによるポーランド・リトアニア共和国への反乱はロシアを引き込んで、ロシア・ポーランド戦争に発展します。
1667年に締結されたロシア・ポーランド戦争終結のためのアンドルソヴォ条約により、キーウはロシア・ツァーリ国の支配下に、ジトーミルは引き続きポーランド・リトアニア共和国の支配下になりました。その後、ポーランドは衰退し、この地域へのロシアの影響力は強くなっていきます。
1768年の大規模な農民反乱コリウシチナは「ジトーミル」市にも大きな衝撃を与えます。ポーランドの衰退は加速し、1795年の第三次ポーランド分割によって、「ジトーミル」市はロシア帝国の支配下に入ります。
ロシア帝国の支配下ではロシアへの同化政策が進められ、ウクライナ語の禁止や、コサック隊のシベリア開拓への利用が行われたといわれています。
19世紀には市内に大聖堂の建築が進められ、農奴制の廃止や鉄道の敷設などにより商業が発展していきます。
1917年 第一次世界大戦にてロシア帝国が滅亡し、ウクライナ人民共和国が成立します。「ジトーミル」市においては、ソビエトとウクライナ人民共和国との攻防戦が行われます。1919年にはウクライナ社会主義ソビエト共和国が成立。その後ウクライナ人民共和国は敗退して消滅、市はソ連のボルシェビキにより支配されることになります。
1930年代からスターリンによる大粛清や民族強制移住など、ソ連支配下の暗黒の時代がやってきます。1932-33年にはホロドモールと呼ばれる人工的大飢饉が引き起こされました。計画経済の失敗をごまかすために、ソ連はウクライナに軍隊を送り込んで農作物を略奪していきました。これよりジトーミル州の農村でも深刻な食料不足となり多くの人々が飢餓で死亡し、小さな集落は壊滅していきました。ソ連は農村から略奪した農作物を輸出して外貨を得て、モスクワなどの主要都市を繁栄させます。外国のジャーナリストには繁栄している都市のみを取材させ、国外に「共産主義は成功している」と宣伝していました。
第二次世界大戦が勃発して、1941年にはナチスドイツは「ジトーミル」市を空爆し、占領します。1944年になるとナチスドイツは撤退し、「ジトーミル」市は再びソ連により支配されます。
1960年あたりから、ソ連による工業化が推進されます。1986年になるとチェルノブイリ原発事故が発生し、ジトーミル州の北部が被害を受けます。
1991年、ソ連の崩壊によりウクライナは独立します。2010年ごろには「ジトーミル」市の交通網が整備され、商業が発展していきます。
2022年にロシアによるウクライナへの全面侵略が始まり、ジトーミルはロケット弾などの被害を受けています。
「ジトーミル」市の概要と歴史はおおよそ以上になります。
それでは、「ジトーミル」市の名の由来につてい見てみましょう。
「ジトーミル」市の名の由来、それは伝説のキーウ王子であるアスコルドとディルのジトーミル兄弟の名から取ったといわれています。この伝説にはいくつかのバージョンがあり、どれが正しいか定かではありません。また支配者が変わるとともに、その支配者の都合の良いように書き換えられていったとも考えられています。
実は、「ジトーミル」市にはもう一つの由来があります。それは、太古の昔からこの地域で栽培されていた。ウクライナにとって重要な文化であるライ麦にちなんで「ライ麦と平和」、「人々の平和」、すなわち農業を主な仕事とする人々の平和で穏やかな生活の象徴として名づけられたという説です。ジトーミルは古くからのライ麦の生産地であり、ライ麦はウクライナ人たちにとって重要な農耕文化の象徴です。ここでようやくライ麦が出てきました。もう一つの由来を知ることによって、『ジート』(すなわち「ライ麦」)と「ジトーミル」がつながりました。
なぜ都市名の由来が二つあるのでしょうか?
古い資料、ロシア帝国やソ連時代の資料には往々にして人名による由来のみが記載され、「ライ麦と平和」を由来とするとは書かれていません。「ライ麦と平和」の由来は、ロシアによる支配とウクライナ語の禁止によって消されてしまっていたのかもしれません。
『ジート』は、ウクライナ語で「ライ麦」を意味します。ロシア帝国の支配下ではウクライナ語は何度も禁止令が出されていましたので、ウクライナ語で「ライ麦」を意味すると説明することは許されなかったと考えられます。ウクライナ語が禁止されているのだから、ウクライナ語に基づく由来は、資料から消されてしまったのでしょう。
一方の人名由来は、由来となった人物の血筋や物語の内容を変更するだけで支配者にとって都合の良い話に書き換えることができます。それゆえ、古い資料には人名による由来のみが記載されることになったのではないでしょうか。
ウクライナ料理レストラン『ジート』の暗号、それはウクライナ人たちにとって重要な農耕文化の象徴であるライ麦とウクライナの都市ジトーミルをもう一度つなぐこと。そこには、ウクライナ語が禁止されていた時代に消されてしまったもう一つの由来、「ジトーミル」市が「ライ麦と平和」の街であることを思い出させよう、そんな想いが込められているのかもしれません。


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