世界平和への筋道>イデオロギー闘争
イデオロギーとは政治的、経済的システムを基礎とした観念的な考え方の集合体をいいます。イデオロギーはいわば現実とは離れた理想であり、空想であり、それゆえ同時に強い信念として見られています。ある考えが正しいと強く信じる人にとって、その考えに同意しない人々は往々にして敵とみなされることが多いです。ゆえにイデオロギーは闘争を生み、戦争や社会不安の原因をつくるといわれています。問題はイデオロギーを信念として持つことが、他を排除しようとする攻撃的な心理に発展しやすいことです。
イデオロギーといえば、環境主義、共産主義、社会主義、ファシズム、無政府主義、リベラリズムなどの類型があります。イデオロギーを信奉する人々は往々にして排他的で敵をつくり、争いを増やす傾向があります。
イデオロギーが生まれるのは、社会の現状のルールや秩序に人々が不満を持つときです。社会は人々の集まりです。人々が好き勝手に振る舞えば社会は崩壊しかねません。ですから、社会はルールをつくり、秩序によって人々を統制しようとします。しかしそのルールや秩序が偏っていたり、特定の人に有利になっていたり、また場合によっては特定の人だけがルール破りできるようになっていたりすれば、社会の人々はそのルールや秩序に不満を持つようになります。その不満が大きくなったとき、人々の不満を正当化するイデオロギーが登場すれば、そのイデオロギーに飛びつく人々が増えていくでしょう。「社会の現状は間違っている、新しいイデオロギーによる秩序を社会に導入するのが正しいのだ」、そう思う人々が増えれば、新しいイデオロギーへの支持者も増えていきます。
イデオロギーは敵をつくります。イデオロギーの最初の敵は現状の支配者、あるいは現状を維持しようとする勢力です。次に彼らは、自分たちと違う考え方のイデオロギーを敵とみなして攻撃します。対立するイデオロギーとの闘争が激化すると、社会不安が高まり、各地で衝突・紛争が発生しやすくなります。
イデオロギーは人々を扇動します。イデオロギーそのものは「考え方のかたまり」であり、それだけでは世の中は変わりません。世の中を変えるのは人です。イデオロギーが世の中を変えるためには、イデオロギーに影響された人々が社会を変えるために行動を起こす必要があります。つまり、イデオロギーで社会を変えるためには、人々をそそのかし、行動を起こさせようとする、扇動行為が必要になってきます。扇動行為の一番単純な方法は、誰かを「敵」に仕立て上げ、その敵を攻撃するようにそそのかすことです。
このように、イデオロギーは往々にして人々を扇動し、争い事を起こさせることによって社会を支配しようとします。これは社会不安を高め、衝突や紛争を引き起こす危険な性質です。
イデオロギーをまるで宗教のように信奉するあまり、イデオロギーへの「陶酔」を始める人たちもいます。あたかもそのイデオロギーが神聖で絶対的なものであるかのように考え、その考えと異なる思想をすべて排除しようと行動を始める人たちもいます。イデオロギーが人々によって絶対神聖化されることで、イデオロギーそのものが危険思想のようになり、暴走を始めてしまうのです。
イデオロギーは劣化します。支持者の多いイデオロギーは正当で素晴らしいもののように見えることが多いようですが、それらが広まるとともに劣化していきます。特定のイデオロギーによって建設された国家は決してそのイデオロギーが考えていたような理想国家にはなりません。そもそも、特定のイデオロギーによって社会を変え、国家を建設しようとする考えそのものに無理があるのです。イデオロギーは劣化しなければ多くの人々の賛同を得ることができませんし、劣化すればするほど理想から離れていきます。イデオロギーが社会を変えたときには、そのイデオロギーはすでに劣化しているのです。
イデオロギーは戦争を引き起こします。イデオロギーは現状勢力や他のイデオロギーを敵とみなし、衝突することによって支持者を集め、存在意義を主張しようとします。武力による戦争あるいは冷戦、情報戦などにより、イデオロギーは支配力の拡大を目論みます。世の中に戦争がなくならないのは、イデオロギーが戦争を引き起こそうとし続けているからです。
イデオロギーは人々を不幸に陥れる装置です。イデオロギーに染まり、イデオロギーを信奉することによって、人々は不幸になっていきます。世の中の多くの人々が不幸になる原因は、イデオロギーにあります。イデオロギーに巻き込まれていくことは、不幸に向かう第一歩です。
不幸にならないためには、イデオロギーに染まらないこと、とりわけイデオロギー闘争に関わらないことが大切です。イデオロギーに関わらないといっても、無関心で良いわけではありません。イデオロギーに無関心でいると、知らず知らずのうちに何らかのイデオロギーの影響を受けてしまうかもしれません。イデオロギーの影響を受けてしまわないためにも、世の中の主だったイデオロギーの特徴や問題点は大まかに把握しておき、かれらが人々に影響を与えようとする手口についてはよく知っておきましょう。そのうえで、イデオロギーに影響されることによって不幸になる道を選ばないようにしていくことです。
世の中に争い事が多く、なかなか世界が平和に向かわないのはなぜでしょうか。人々の心が自己中心的で妬みや憎悪、恨みなどの持ちやすいのは世の中の争いの大きな原因ではないでしょうか。争いの原因をつくらないためには、まずは自己中心的な人々の心が変わる必要があります。悪しき感情を捨て去り、人々をあわれむ仁の心とともに、人々を敬服させる人格の力である徳の心を備えることが、争いごとを無くしていくにはとても大切です。
人々が不安や、恐怖に悩まされているようではなかなか世界は平和になりません。世の中が平和に治まるためには、人々が不安や恐怖に悩まされることなく、安心して穏やかに日々を過ごすことができることが求められます。人心の平安は社会の安定のためにも大切です。多くの人々が安心して穏やかに日常生活を過ごせることは、大変重要であるとともに貴重なことなのです。人心の平安を実現するには、不安や恐怖を引き起こす原因をなくしていかなくてはなりません。
平和を実現し、維持していくためには、平和のための教育をしていくことが大切です。自ら平和のための教育を受けるだけでなく、その教育を普及させていくことが世界平和の実現には重要になってきます。平和のための教育は、理解しやすくいだけでなく、より効果的で実践しやすいと同時に、賛同しやすく普及しやすいものであることが求められます。人々の反発を生んだり、賛同を得られず対立を生むような教育では、かえって平和から遠のいてしまいます。
社会にうまく適応できない人々がドロップアウトしたり、社会に恨みを抱いて破壊的な行動に出る場合があります。もしかしたらそれは、発達障害が原因かもしれません。発達障害によって本人が周囲の人々とうまく意思疎通できず、お互いに苦しむことがあります。意思疎通がうまくいかない状態を放置しておくと、人間関係の亀裂や対立、場合によっては深刻な争いが起こることがあります。私たちは発達障害についてもっと理解し、適切な対応方法を知っておく必要があるのかもしれません。
イデオロギーとは政治的、経済的システムを基礎とした観念的な考え方の集合体をいいます。イデオロギーはいわば現実とは離れた理想であり、空想であり、それゆえ同時に強い信念として見られています。ある考えが正しいと強く信じる人にとって、その考えに同意しない人々は往々にして敵とみなされることが多いです。ゆえにイデオロギーは闘争を生み、戦争や社会不安の原因をつくるといわれています。問題はイデオロギーを信念として持つことが、他を排除しようとする攻撃的な心理に発展しやすいことです。
宗教とは何らかの神聖で絶対なものへの信仰や儀式などを軸とした教義などをいいます。宗教は時として人々の心に強い影響力を持ち、それゆえ場合によっては宗教を信仰する人々が社会的に異常な行動をとったり、宗教間の対立が激しくなって戦争が引き起こされたりすることがあります。宗教は世界平和への助けになることもあれば、世界平和に対する妨げになることもあります。できれば宗教には人々の対立をあおるのではなく、世界平和の助けになるよう、人々の心に働きかけてほしいものです。
祈りとは神仏に願うことをいいます。世界中のすべての人々が世界平和を願って神仏に祈れば、ひょっとしたら世界平和はすぐに実現できるかもしれません。排他的ですぐに他人を攻撃しようとしたがる人々がいなくなり、素直でまっすぐに神仏に向き合い、ひたすら祈りの心をささげる人々が増えていけば、紛争や対立は少なくなるかもしれません。祈りの心を持つことが世の中を変える力となるのであれば、ぜひとも多くの人々が祈りの心を持つべきでしょう。
差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることをいいます。何かをした結果を、人は受け取ります。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあることでしょう。良いことをした人と、悪いことをした人が差別されるのは当然かもしれません。しかし、時として人は理不尽に扱われ、不当な差別を受けることがあります。そんなときは、人は差別そのものを恨んだり、差別した人を憎んだりしがちです。差別されたことによって、恨みや憎しみが人の心に発生するのです。
情報とは何らかの事件があったときのその状況・実情・途中経過についての知らせをいいます。また扇動とは何か行動をするように他人をそそのかすことをいいます。情報は往々にして断片的であり、非連続的であり、未完結です。場合によっては意図的に偏った情報や、間違った情報が流されることがあります。意図的に偏った情報、あるいは間違った情報によって、暴動や騒乱、場合によっては戦争が起きることがあります。また、情報そのものは大きく間違っていなくても、それを使って扇動された人々が異常な行動を起こす場合があります。
人権とは人間が生まれながらに持つ権利をいいます。生れ落ちたとき、全ての人に人権が与えられています。ただし多くの場合、人は生まれ育った環境の制約条件に左右されながら生きることになります。必ずしもすべての人間に等しく人権が守られるとは限らないのです。しかし、国家や社会によって人権が不当に制限されるとしたら、それは大きな問題です。人権は必要である限り守られるべきものです。人権に対する不当な制限はできるだけ無くしていかなくてはなりません。
陰謀とは秘かに企てる悪だくみをいいます。世の中には、表向き良い人のふりをしながら、陰でよからぬはかりごとをたくらんでいる人たちがいます。陰謀は人々の知らないところで計画され、進められます。ただし、陰謀は表に出てしまえば陰謀ではなくなります。問題は、何か社会で問題がおきたときなど、誰かの陰謀だと騒ぎ立てる人たちがいることです。いわゆる陰謀論を騒ぎ立てて誰か特定の人たちを悪者だと決めつけようとする扇動行為が行われ、社会不安の原因になっています。
社会において対立や紛争が激しくなれば、多くの人々が不幸になります。争い事や人々の不幸が発生するのは、何か原因があるからです。人々を対立させ、争わせる原因、人々が不幸になる原因をなくしていけば、それだけ争い事や人々の不幸を減らしていくことができるはずです。短絡的に誰か他人に責任を押し付けたり、社会そのものを破壊し否定するのでは根本的な解決にはなりません。その本質的な原因を見つけ出し、その原因を解消していく方法を学んでいくことが求められます。
和とはなごやかで仲が良いことです。争いや敵意、憎しみなどを持たないことが和の心です。皆がお互いに仲良くし、さまざまなものをほどよく混ぜ合わせることで争いや不幸を招く原因をなくしていくのが和の思想です。排他的でなく、偏らず、すべてを取り入れる懐の深さが和の思想にはあります。和の思想では一つの正解を人々が信じ込まされることはなく、様々な考えを受け入れつつ自主性が尊重されます。和の思想が中心にあることで、人々の心や社会が整い、やわらぎます。
煩悩というのはちょっとしたはかない想いであり、夢です。夢を持つことは決して悪いことではありません。多くの人々は夢を持ち、夢を実現したくて目標を掲げ、そしてその目標のために努力します。夢は世界を動かします。夢は良い方向に世界を動かすこともあれば、悪い方向に世界を動かすこともあるでしょう。ひとつの夢が実現したからといって人が幸せになるとは限りません。また夢が実現できなかったとき、他人への恨みや妬みの感情を持つ人も少なくありません。