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差別とその本質

差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることをいいます。何かをした結果を、人は受け取ります。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあることでしょう。良いことをした人と、悪いことをした人が差別されるのは当然かもしれません。しかし、時として人は理不尽に扱われ、不当な差別を受けることがあります。そんなときは、人は差別そのものを恨んだり、差別した人を憎んだりしがちです。差別されたことによって、恨みや憎しみが人の心に発生するのです。

差別とその本質

差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることです。差別は社会に必要なことですし、差別そのものは悪ではありません。差別がなくなったら社会は無秩序になり、善良で勤勉な人々がひどい目に合い、社会そのものが衰退し、ついには崩壊してしまいます。社会秩序を維持し、また社会を発展させるためにも、社会は適切で正しい差別をしていかなくてはなりません。
しかし、不適切で不当な差別が社会で横行すると大きな問題になります。たとえば、支配者と考えの違う人々がどんどん粛清されるような国家では、言論の自由はなくなり、ただ支配者と考えが違うというだけで差別されてしまいます。場合によっては、本人は支配者と同じ考えだと主張しても、誹謗中傷や密告によって支配者が「こいつを粛清しよう」と考えることで粛清や差別が行われることになります。
支配者は個人とは限りません、民主国家においても国民の多数がそのときの言論や時代の潮流によって、不当な差別を認めるような政策が決定されることがあります。そのときの時流に流されやすい風潮によって、冷静に考えれば異常としか言えないような差別が是認されていくことは珍しくありません。
社会において正当な差別は必要です。社会が差別をしなくてはならないのは理由および目的があります。社会が差別をする理由および目的は、社会秩序の維持と社会の発展です。社会は、社会秩序の維持と社会の発展のために、それが人権を不当に制限しない範囲内において、適切で正当な差別をしていかなくてはなりません。社会秩序が維持されなければ社会は崩壊しますし、社会が発展しなければじわじわと社会は衰退していきます。差別のない社会とは崩壊する社会を意味します。
社会において正当な差別は必要です。しかし、不当な差別は社会に有害であり、無くしていかなくてはなりません。不当な差別が横行すれば社会秩序は乱れ、社会は衰退していってしまいます。正当な差別と不当な差別とは、それが社会全体の秩序を維持し、社会を発展させ、社会を構成する人々をより豊かで幸せにしていくかどうかで見分けられます。ある差別をなくすことで社会秩序が守られ社会が発展するなら、なくすべきです。逆に、その差別をなくせば社会秩序が乱れ、社会の発展が阻害されるなら無くすべきではありません。
善悪の判断基準は社会によって、また時代によって変化します。時代が変化すれば、社会通念としての善悪は変化し、差別の判断基準も変化します。また同じ社会に住む同じ時代の人間同士でも、高年齢の世代と若い世代、男性と女性、地域、人種、身分、教育的背景などによってその判断基準は異なります。場合によっては社会の中でその判断基準について衝突が起きることもあります。
意図的に争点や論点をつくって「差別だ!」と騒ぐ人々がいます。差別とは言い難いものを差別だと騒いだり、社会秩序や社会の発展に必要な正当な差別をあたかも不当な差別であるかのように騒いだりする行為は、もしかしたら社会の崩壊を狙った破壊工作なのかもしれません。本来騒ぐ必要のないことをわざわざ騒ぎ立てる人々を、私たちは警戒しなくてはなりません。彼らは騒ぎ立てることで社会を混乱させ、社会を分断し、社会不安や衝突によって利益を得ようと目論んでいるのかもしれないのです。差別問題は選挙などでの政治的争点になったり、イデオロギー闘争の主要課題になったりします。とくに原理主義思想に染まった人々ほど差別ということばを振りかざして横暴な考えを他人に押し付けようとします。「差別に対して声を出さないのは、差別している人間どもと同じだ!」などと言って、黙っている人たちをも攻撃しようとしたりします。このような人々はひたすら「差別」という言葉を振りかざして社会秩序の崩壊と社会の衰退のために活動しているのですから、社会の安定と発展を望む人たちにとっては至って迷惑な話です。
差別する側の心理としては、嫌悪や軽蔑、あるいは裏切られたことに対する憎しみがあります。嫌悪を感じるような人は一緒に居たくないですし、軽蔑したくなるような人とは同類だと思われたくないものです。嫌悪や軽蔑によって差別が生じたのであれば、差別行為だけを非難してやめさせようとしても根本的な解決にはなりません。なぜ嫌悪を感じたのか、なぜ軽蔑したくなったのか、その原因をつきとめるとともに、それを解消し、嫌悪感や軽蔑感がそもそも発生しないようにしていくことが大切です。そのためには差別する側だけでなく、差別される側も反省して発言や行動を変える必要があります。差別される側に差別を解消しようとする努力が見られなければ、差別は容易には解消しません。「裏切られた」と感じることが原因で差別が発生することもあります。約束を守らない人、信用できない人は、社会で差別されても仕方ないかもしれません。ただし、差別する側の一方的な思い込みで「裏切られた」と考えてしまうこともあります。そのような場合は差別する側の思い込みに問題があることになります。
差別された人の心理としては、劣等感とともに差別する側に対する恨みや憎しみ、あるいは妬みなどが発生したりします。恨みや憎しみ、あるいは妬みの原因は差別そのものではありません。たとえ不当な差別を受けていなくても恨みや憎しみ、あるいは妬みの感情を持つ人は持ちますし、不当な差別を受けていても恨みや憎しみ、あるいは妬みの感情を持たない人は持ちません。問題は差別される側がどのように差別を心理的に捉えているかです。差別される側の恨みや憎しみ、あるいは妬みの感情が増幅されると、社会が不安定になります。社会の安定と発展を目指すのであれば、差別が正当か不当かに関わらず、差別される側の心理についても注意し、恨みや憎しみ、あるいは妬みが増幅されないようにしていく必要があります。

仁と徳の心

世の中に争い事が多く、なかなか世界が平和に向かわないのはなぜでしょうか。人々の心が自己中心的で妬みや憎悪、恨みなどの持ちやすいのは世の中の争いの大きな原因ではないでしょうか。争いの原因をつくらないためには、まずは自己中心的な人々の心が変わる必要があります。悪しき感情を捨て去り、人々をあわれむ仁の心とともに、人々を敬服させる人格の力である徳の心を備えることが、争いごとを無くしていくにはとても大切です。

人心の平安

人々が不安や、恐怖に悩まされているようではなかなか世界は平和になりません。世の中が平和に治まるためには、人々が不安や恐怖に悩まされることなく、安心して穏やかに日々を過ごすことができることが求められます。人心の平安は社会の安定のためにも大切です。多くの人々が安心して穏やかに日常生活を過ごせることは、大変重要であるとともに貴重なことなのです。人心の平安を実現するには、不安や恐怖を引き起こす原因をなくしていかなくてはなりません。

平和のための教育

平和を実現し、維持していくためには、平和のための教育をしていくことが大切です。自ら平和のための教育を受けるだけでなく、その教育を普及させていくことが世界平和の実現には重要になってきます。平和のための教育は、理解しやすくいだけでなく、より効果的で実践しやすいと同時に、賛同しやすく普及しやすいものであることが求められます。人々の反発を生んだり、賛同を得られず対立を生むような教育では、かえって平和から遠のいてしまいます。

発達障害とその対応

社会にうまく適応できない人々がドロップアウトしたり、社会に恨みを抱いて破壊的な行動に出る場合があります。もしかしたらそれは、発達障害が原因かもしれません。発達障害によって本人が周囲の人々とうまく意思疎通できず、お互いに苦しむことがあります。意思疎通がうまくいかない状態を放置しておくと、人間関係の亀裂や対立、場合によっては深刻な争いが起こることがあります。私たちは発達障害についてもっと理解し、適切な対応方法を知っておく必要があるのかもしれません。

イデオロギー闘争

イデオロギーとは政治的、経済的システムを基礎とした観念的な考え方の集合体をいいます。イデオロギーはいわば現実とは離れた理想であり、空想であり、それゆえ同時に強い信念として見られています。ある考えが正しいと強く信じる人にとって、その考えに同意しない人々は往々にして敵とみなされることが多いです。ゆえにイデオロギーは闘争を生み、戦争や社会不安の原因をつくるといわれています。問題はイデオロギーを信念として持つことが、他を排除しようとする攻撃的な心理に発展しやすいことです。

宗教に対する考え方

宗教とは何らかの神聖で絶対なものへの信仰や儀式などを軸とした教義などをいいます。宗教は時として人々の心に強い影響力を持ち、それゆえ場合によっては宗教を信仰する人々が社会的に異常な行動をとったり、宗教間の対立が激しくなって戦争が引き起こされたりすることがあります。宗教は世界平和への助けになることもあれば、世界平和に対する妨げになることもあります。できれば宗教には人々の対立をあおるのではなく、世界平和の助けになるよう、人々の心に働きかけてほしいものです。

祈りの心

祈りとは神仏に願うことをいいます。世界中のすべての人々が世界平和を願って神仏に祈れば、ひょっとしたら世界平和はすぐに実現できるかもしれません。排他的ですぐに他人を攻撃しようとしたがる人々がいなくなり、素直でまっすぐに神仏に向き合い、ひたすら祈りの心をささげる人々が増えていけば、紛争や対立は少なくなるかもしれません。祈りの心を持つことが世の中を変える力となるのであれば、ぜひとも多くの人々が祈りの心を持つべきでしょう。

差別とその本質

差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることをいいます。何かをした結果を、人は受け取ります。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあることでしょう。良いことをした人と、悪いことをした人が差別されるのは当然かもしれません。しかし、時として人は理不尽に扱われ、不当な差別を受けることがあります。そんなときは、人は差別そのものを恨んだり、差別した人を憎んだりしがちです。差別されたことによって、恨みや憎しみが人の心に発生するのです。

情報と扇動

情報とは何らかの事件があったときのその状況・実情・途中経過についての知らせをいいます。また扇動とは何か行動をするように他人をそそのかすことをいいます。情報は往々にして断片的であり、非連続的であり、未完結です。場合によっては意図的に偏った情報や、間違った情報が流されることがあります。意図的に偏った情報、あるいは間違った情報によって、暴動や騒乱、場合によっては戦争が起きることがあります。また、情報そのものは大きく間違っていなくても、それを使って扇動された人々が異常な行動を起こす場合があります。

人権

人権とは人間が生まれながらに持つ権利をいいます。生れ落ちたとき、全ての人に人権が与えられています。ただし多くの場合、人は生まれ育った環境の制約条件に左右されながら生きることになります。必ずしもすべての人間に等しく人権が守られるとは限らないのです。しかし、国家や社会によって人権が不当に制限されるとしたら、それは大きな問題です。人権は必要である限り守られるべきものです。人権に対する不当な制限はできるだけ無くしていかなくてはなりません。

陰謀と陰謀論

陰謀とは秘かに企てる悪だくみをいいます。世の中には、表向き良い人のふりをしながら、陰でよからぬはかりごとをたくらんでいる人たちがいます。陰謀は人々の知らないところで計画され、進められます。ただし、陰謀は表に出てしまえば陰謀ではなくなります。問題は、何か社会で問題がおきたときなど、誰かの陰謀だと騒ぎ立てる人たちがいることです。いわゆる陰謀論を騒ぎ立てて誰か特定の人たちを悪者だと決めつけようとする扇動行為が行われ、社会不安の原因になっています。

争いや不幸を招く原因をなくしていくこと

社会において対立や紛争が激しくなれば、多くの人々が不幸になります。争い事や人々の不幸が発生するのは、何か原因があるからです。人々を対立させ、争わせる原因、人々が不幸になる原因をなくしていけば、それだけ争い事や人々の不幸を減らしていくことができるはずです。短絡的に誰か他人に責任を押し付けたり、社会そのものを破壊し否定するのでは根本的な解決にはなりません。その本質的な原因を見つけ出し、その原因を解消していく方法を学んでいくことが求められます。

和の思想

和とはなごやかで仲が良いことです。争いや敵意、憎しみなどを持たないことが和の心です。皆がお互いに仲良くし、さまざまなものをほどよく混ぜ合わせることで争いや不幸を招く原因をなくしていくのが和の思想です。排他的でなく、偏らず、すべてを取り入れる懐の深さが和の思想にはあります。和の思想では一つの正解を人々が信じ込まされることはなく、様々な考えを受け入れつつ自主性が尊重されます。和の思想が中心にあることで、人々の心や社会が整い、やわらぎます。

煩悩をのり越える

煩悩というのはちょっとしたはかない想いであり、夢です。夢を持つことは決して悪いことではありません。多くの人々は夢を持ち、夢を実現したくて目標を掲げ、そしてその目標のために努力します。夢は世界を動かします。夢は良い方向に世界を動かすこともあれば、悪い方向に世界を動かすこともあるでしょう。ひとつの夢が実現したからといって人が幸せになるとは限りません。また夢が実現できなかったとき、他人への恨みや妬みの感情を持つ人も少なくありません。

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