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人権

人権とは人間が生まれながらに持つ権利をいいます。生れ落ちたとき、全ての人に人権が与えられています。ただし多くの場合、人は生まれ育った環境の制約条件に左右されながら生きることになります。必ずしもすべての人間に等しく人権が守られるとは限らないのです。しかし、国家や社会によって人権が不当に制限されるとしたら、それは大きな問題です。人権は必要である限り守られるべきものです。人権に対する不当な制限はできるだけ無くしていかなくてはなりません。

人権

人権に対する定義や判断基準はそれぞれその人が帰属する国家や社会が決めることになります。国家や社会は認められる人権について定義し、あるいは個別の問題に関して人々の人権がどの程度まで認められるかを判断します。
国家や社会は人権についてその範囲を決定し、個別に判断するだけでなく、場合によっては人権を制限し、あるいは人権を奪うことがあります。人権を制限したりはく奪したりするのは、国家や社会の秩序を守り、国家や社会を維持発展していくためです。例えば大規模な災害が発生したとき、疫病が発生し大流行したとき、暴動や戦争が発生したときなど、事態を収拾するのに必要な場合は緊急事態を宣言するなどして人権が制限されることはめずらしくありません。
人権を無制限に認めれば国家や社会が維持できなくなるおそれがあります。たとえ平穏な時期であっても人権はある程度制限されます。むしろ安定で平穏な時代こそ人権は大きく制限されます。人々は国家や社会の風土を乱さないよう、制限された人権の中で生活することが求められます。
自ら人権を放棄する人々もいます。強権的、独裁的なリーダーに心酔し、そのリーダーを支持することで、自らの権利をそのリーダーに差し出すのです。権利があるのに権利を行使しない人もいます。無知により、あるいは知っているにもかかわらず権利を行使しないことにより、みすみす自らの人権を失っていきます。国家や社会の権力者は、人々が無知で行動を面倒くさがることに付け込んで、実質上人々が権利を行使できないよう、権利行使にさまざまな繁雑な手続きや制約を付けることがあります。このようにして人々はじわじわと人権を失っていきます。
社会の秩序を維持するためには人権はある程度制限されなければなりません。また社会の発展のためにも人権の制限が必要となることがあります。人権が制限されることによって初めて抜本的な改革が実現できることもありますし、人権を無制限に認めることで社会が無秩序になり、社会そのものの衰退につながることがあるからです。
国家が外国に対し、人権を軽視していると批判することがあります。場合によっては人権問題が国家間の批判の応酬を引き起こし、衝突や経済制裁、紛争などが始まることがあります。他国の国内問題に干渉するのは内政干渉です。しかし、深刻な人権問題を抱える国家に対しては、内政干渉だからと何も言わないのは決して良いことではありません。人権を著しく制限する国家をのさばらせておくことは世界平和の観点からも良くありませんし、そのような国に対して沈黙することが自国も人権を著しく制限することに賛同しているとみなされかねないからです。
国家の中には、ある特定の国を攻撃したいために、人権問題を大げさにとりあげ、あるいはでっち上げて、批判するための材料として使うことがあります。人権問題は人々の心理に訴えやすいので、他国を攻撃する大義名分にしやすいのです。
人権を守るためといいながら、対立や紛争を煽るのはとんでもない悪事です。世の中には人権を振りかざした嘘つきたちが少なくありません。人権を振りかざした嘘つきたちは、往々にして人々を扇動し、行動を急き立てようとします。彼らに行動してしまうと、社会がより悪い方向に変化してしまうおそれがあります。
ある国家が他国を「人権を守らない悪い国家だ」と批判・非難するとき、注意深く観察しなくてはなりません。その批判が正しいかどうかのみならず、その国家は他国を批判することで利益を得ようとしていないか、国内問題をごまかす手段として外国への攻撃を始めたのではないか、その国家自体が人権を適切に守っているか、あるいはほかにもっと人権を守らないひどい国家があるのにそことは親しいので批判せず、対立している国の人権問題を大げさに取り上げて批判しているのではないか、などの視点で観察してみると、意外なことがわかってくるかもしれません。
人権は誰が守るのでしょうか。人権を守るのは自分自身です。自らの人権は自分で守らねばなりません。国家や社会は人権を守るための制度をつくってくれるかもしれませんが、何もしなくても国家や社会が個人の人権を守ってくれるとは限らないのです。人権を守るために重要なのは教育です。とりわけ、人権の本質は何か、人権はどのように失われるのか、どのようにすれば人権を守るのことが出来るのか、よく学んでおくことが大切です。
人権の本質を勘違いし、感情的に行動すれば、国家や社会において人権が守られなくなる恐れがあります。人権を守るために活動しているつもりが、それがかえって人々から人権を奪い、世界平和への妨げとなっていることも珍しくありません。
国家や社会が不当に人権を制限するような時代が来ないためにも、人々は人権の本質を知り、人権を守る知恵を育んでいく必要があります。

仁と徳の心

世の中に争い事が多く、なかなか世界が平和に向かわないのはなぜでしょうか。人々の心が自己中心的で妬みや憎悪、恨みなどの持ちやすいのは世の中の争いの大きな原因ではないでしょうか。争いの原因をつくらないためには、まずは自己中心的な人々の心が変わる必要があります。悪しき感情を捨て去り、人々をあわれむ仁の心とともに、人々を敬服させる人格の力である徳の心を備えることが、争いごとを無くしていくにはとても大切です。

人心の平安

人々が不安や、恐怖に悩まされているようではなかなか世界は平和になりません。世の中が平和に治まるためには、人々が不安や恐怖に悩まされることなく、安心して穏やかに日々を過ごすことができることが求められます。人心の平安は社会の安定のためにも大切です。多くの人々が安心して穏やかに日常生活を過ごせることは、大変重要であるとともに貴重なことなのです。人心の平安を実現するには、不安や恐怖を引き起こす原因をなくしていかなくてはなりません。

平和のための教育

平和を実現し、維持していくためには、平和のための教育をしていくことが大切です。自ら平和のための教育を受けるだけでなく、その教育を普及させていくことが世界平和の実現には重要になってきます。平和のための教育は、理解しやすくいだけでなく、より効果的で実践しやすいと同時に、賛同しやすく普及しやすいものであることが求められます。人々の反発を生んだり、賛同を得られず対立を生むような教育では、かえって平和から遠のいてしまいます。

発達障害とその対応

社会にうまく適応できない人々がドロップアウトしたり、社会に恨みを抱いて破壊的な行動に出る場合があります。もしかしたらそれは、発達障害が原因かもしれません。発達障害によって本人が周囲の人々とうまく意思疎通できず、お互いに苦しむことがあります。意思疎通がうまくいかない状態を放置しておくと、人間関係の亀裂や対立、場合によっては深刻な争いが起こることがあります。私たちは発達障害についてもっと理解し、適切な対応方法を知っておく必要があるのかもしれません。

イデオロギー闘争

イデオロギーとは政治的、経済的システムを基礎とした観念的な考え方の集合体をいいます。イデオロギーはいわば現実とは離れた理想であり、空想であり、それゆえ同時に強い信念として見られています。ある考えが正しいと強く信じる人にとって、その考えに同意しない人々は往々にして敵とみなされることが多いです。ゆえにイデオロギーは闘争を生み、戦争や社会不安の原因をつくるといわれています。問題はイデオロギーを信念として持つことが、他を排除しようとする攻撃的な心理に発展しやすいことです。

宗教に対する考え方

宗教とは何らかの神聖で絶対なものへの信仰や儀式などを軸とした教義などをいいます。宗教は時として人々の心に強い影響力を持ち、それゆえ場合によっては宗教を信仰する人々が社会的に異常な行動をとったり、宗教間の対立が激しくなって戦争が引き起こされたりすることがあります。宗教は世界平和への助けになることもあれば、世界平和に対する妨げになることもあります。できれば宗教には人々の対立をあおるのではなく、世界平和の助けになるよう、人々の心に働きかけてほしいものです。

祈りの心

祈りとは神仏に願うことをいいます。世界中のすべての人々が世界平和を願って神仏に祈れば、ひょっとしたら世界平和はすぐに実現できるかもしれません。排他的ですぐに他人を攻撃しようとしたがる人々がいなくなり、素直でまっすぐに神仏に向き合い、ひたすら祈りの心をささげる人々が増えていけば、紛争や対立は少なくなるかもしれません。祈りの心を持つことが世の中を変える力となるのであれば、ぜひとも多くの人々が祈りの心を持つべきでしょう。

差別とその本質

差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることをいいます。何かをした結果を、人は受け取ります。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあることでしょう。良いことをした人と、悪いことをした人が差別されるのは当然かもしれません。しかし、時として人は理不尽に扱われ、不当な差別を受けることがあります。そんなときは、人は差別そのものを恨んだり、差別した人を憎んだりしがちです。差別されたことによって、恨みや憎しみが人の心に発生するのです。

情報と扇動

情報とは何らかの事件があったときのその状況・実情・途中経過についての知らせをいいます。また扇動とは何か行動をするように他人をそそのかすことをいいます。情報は往々にして断片的であり、非連続的であり、未完結です。場合によっては意図的に偏った情報や、間違った情報が流されることがあります。意図的に偏った情報、あるいは間違った情報によって、暴動や騒乱、場合によっては戦争が起きることがあります。また、情報そのものは大きく間違っていなくても、それを使って扇動された人々が異常な行動を起こす場合があります。

人権

人権とは人間が生まれながらに持つ権利をいいます。生れ落ちたとき、全ての人に人権が与えられています。ただし多くの場合、人は生まれ育った環境の制約条件に左右されながら生きることになります。必ずしもすべての人間に等しく人権が守られるとは限らないのです。しかし、国家や社会によって人権が不当に制限されるとしたら、それは大きな問題です。人権は必要である限り守られるべきものです。人権に対する不当な制限はできるだけ無くしていかなくてはなりません。

陰謀と陰謀論

陰謀とは秘かに企てる悪だくみをいいます。世の中には、表向き良い人のふりをしながら、陰でよからぬはかりごとをたくらんでいる人たちがいます。陰謀は人々の知らないところで計画され、進められます。ただし、陰謀は表に出てしまえば陰謀ではなくなります。問題は、何か社会で問題がおきたときなど、誰かの陰謀だと騒ぎ立てる人たちがいることです。いわゆる陰謀論を騒ぎ立てて誰か特定の人たちを悪者だと決めつけようとする扇動行為が行われ、社会不安の原因になっています。

争いや不幸を招く原因をなくしていくこと

社会において対立や紛争が激しくなれば、多くの人々が不幸になります。争い事や人々の不幸が発生するのは、何か原因があるからです。人々を対立させ、争わせる原因、人々が不幸になる原因をなくしていけば、それだけ争い事や人々の不幸を減らしていくことができるはずです。短絡的に誰か他人に責任を押し付けたり、社会そのものを破壊し否定するのでは根本的な解決にはなりません。その本質的な原因を見つけ出し、その原因を解消していく方法を学んでいくことが求められます。

和の思想

和とはなごやかで仲が良いことです。争いや敵意、憎しみなどを持たないことが和の心です。皆がお互いに仲良くし、さまざまなものをほどよく混ぜ合わせることで争いや不幸を招く原因をなくしていくのが和の思想です。排他的でなく、偏らず、すべてを取り入れる懐の深さが和の思想にはあります。和の思想では一つの正解を人々が信じ込まされることはなく、様々な考えを受け入れつつ自主性が尊重されます。和の思想が中心にあることで、人々の心や社会が整い、やわらぎます。

煩悩をのり越える

煩悩というのはちょっとしたはかない想いであり、夢です。夢を持つことは決して悪いことではありません。多くの人々は夢を持ち、夢を実現したくて目標を掲げ、そしてその目標のために努力します。夢は世界を動かします。夢は良い方向に世界を動かすこともあれば、悪い方向に世界を動かすこともあるでしょう。ひとつの夢が実現したからといって人が幸せになるとは限りません。また夢が実現できなかったとき、他人への恨みや妬みの感情を持つ人も少なくありません。

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