世界平和への筋道>宗教に対する考え方
宗教とは何らかの神聖で絶対なものへの信仰や儀式などを軸とした教義などをいいます。宗教は時として人々の心に強い影響力を持ち、それゆえ場合によっては宗教を信仰する人々が社会的に異常な行動をとったり、宗教間の対立が激しくなって戦争が引き起こされたりすることがあります。宗教は世界平和への助けになることもあれば、世界平和に対する妨げになることもあります。できれば宗教には人々の対立をあおるのではなく、世界平和の助けになるよう、人々の心に働きかけてほしいものです。
世の中には様々な宗教があります。例えば一神教の宗教と多神教の宗教、社会と同じような価値観を持つ世俗的な宗教と社会の価値観を拒否する排他的な宗教、布教活動をせず興味関心を持った者たちだけが集まる宗教と積極的に布教活動をする宗教、開放的な宗教と閉鎖的な宗教、他の宗教に対して寛容な宗教と他の宗教に対して攻撃的な宗教、信者全員が同じ価値観を共有すべきとする宗教と階層構造になっていて上層部と下層部が大きく異なる価値観を持つ宗教、あるいは宗教教義や戒律が細かく規定されている宗教と明確な宗教教義が規定されていない宗教などです。それぞれの宗教にいろいろな特性があり、また同じ宗教であっても地域や時代によってその中身が変化することがあります。
宗教は人々の心に働きかけます。宗教の影響力は絶大であり、現在の世界を学ぶにしても、これまでの人類の歴史を学ぶにしても、宗教の影響力を考えずに理解することはほとんど困難です。宗教は様々な戦争や民族間の対立、迫害、憎悪、差別行為などと関わりがあります。なかには戦争や民族対立、迫害、憎悪、差別行為の原因となるような危険な宗教もあります。私たちはそのような危険な宗教の特徴を把握し、危険な宗教によって人類が不幸に陥らないように適切な対応をしていかなくてはなりません。
危険で有害な宗教にはいくつかの特徴があります。なにかの宗教と出会ったとき、その宗教がこれらの特徴を有しているかどうかをチェックしてみましょう。それによって、その宗教が危険で有害であるかどうかを見分けるヒントになります。たとえばその宗教教義や信者たちが排他的である、その宗教の教えを広めている人々が他の宗教に対して攻撃的な発言をする、その宗教の教祖や指導者たちが扇動的な発言をする、あるいはその信者たちが扇動されて動いているように見える、その宗教に対する異論や疑いを持つことを許そうとしない、その宗教への批判や反論に対して寛容的でない、その宗教が特定の科学研究や哲学思想を否定したり、攻撃したりしている、またあるいは終末思想などで人々を恐怖に追い込んでいるなどです。
排他的、攻撃的、扇動的で不寛容、科学や哲学思想に対して否定的、そして人々を恐怖に追い込むような宗教では、信者たちが異常行動を起こしやすくなります。宗教の信者たちによる異常行動は社会不安を引き起こしやすく、テロ活動などが発生したりします。
二つの勢力ある宗教があり、一方または他方が排他的で攻撃的であれば、宗教間に対立が発生することになります。寛容でない宗教同士が対立することで、お互いの指導者や信者同士が攻撃し合い、ついには紛争に発展することもあります。
宗教が人々の心を救済してより良い方向に導くどころか、他への憎悪を煽り立て戦争をけしかけようとすることがあるのです。宗教対立によって多くの人々が殺され、不幸に落とされるのは残念なことです。歴史的に見れば、宗教と戦争は密接に関連しています。宗教とその対立こそが戦争の大きな原因の一つになっているのです。
とりわけ有害なのが人々の対立をあおる宗教です。宗教指導者がどこかの特定の人種や宗教を敵とみなし、攻撃するように煽り立てるのは危険なことです。宗教による対立や憎悪は後々まで影響し、何世代もの人々を不幸に突き落とします。本来であれば宗教は人々を救済し、より良い方向に導くべきものです。それが、宗教の名によって人々を不幸と憎悪の世界に突き落とそうとするのは、ずいぶんとひどい話です。
世界平和の実現を望むのであれば、私たちは危険で有害な宗教からは離れ、世界平和の助けになる宗教を篤く敬うべきでしょう。世界平和の助けになる宗教とは、排他的でなく、攻撃的でなく、扇動せず、寛容で、特定の科学や哲学思想を否定したりせず、そして人々を恐怖に追い込んだりしない宗教です。心優しく寛大で、常に人々の心が平穏で幸せになるよう、また世界が平和になるような動機づけをしてくれる宗教が世界の主流になれば、世界で対立や憎悪が減少し、より平和な世界の実現に近づいていくことができるのではないでしょうか。
私たちは宗教を見分ける目を持たなくてはなりません。危険で有害な宗教からは離れ、世界平和の助けになる宗教を大切にしなくてはなりません。くれぐれも宗教によって不幸になることがないよう、宗教に対する適切な対応のしかたを学んでいくことが必要です。
世の中に争い事が多く、なかなか世界が平和に向かわないのはなぜでしょうか。人々の心が自己中心的で妬みや憎悪、恨みなどの持ちやすいのは世の中の争いの大きな原因ではないでしょうか。争いの原因をつくらないためには、まずは自己中心的な人々の心が変わる必要があります。悪しき感情を捨て去り、人々をあわれむ仁の心とともに、人々を敬服させる人格の力である徳の心を備えることが、争いごとを無くしていくにはとても大切です。
人々が不安や、恐怖に悩まされているようではなかなか世界は平和になりません。世の中が平和に治まるためには、人々が不安や恐怖に悩まされることなく、安心して穏やかに日々を過ごすことができることが求められます。人心の平安は社会の安定のためにも大切です。多くの人々が安心して穏やかに日常生活を過ごせることは、大変重要であるとともに貴重なことなのです。人心の平安を実現するには、不安や恐怖を引き起こす原因をなくしていかなくてはなりません。
平和を実現し、維持していくためには、平和のための教育をしていくことが大切です。自ら平和のための教育を受けるだけでなく、その教育を普及させていくことが世界平和の実現には重要になってきます。平和のための教育は、理解しやすくいだけでなく、より効果的で実践しやすいと同時に、賛同しやすく普及しやすいものであることが求められます。人々の反発を生んだり、賛同を得られず対立を生むような教育では、かえって平和から遠のいてしまいます。
社会にうまく適応できない人々がドロップアウトしたり、社会に恨みを抱いて破壊的な行動に出る場合があります。もしかしたらそれは、発達障害が原因かもしれません。発達障害によって本人が周囲の人々とうまく意思疎通できず、お互いに苦しむことがあります。意思疎通がうまくいかない状態を放置しておくと、人間関係の亀裂や対立、場合によっては深刻な争いが起こることがあります。私たちは発達障害についてもっと理解し、適切な対応方法を知っておく必要があるのかもしれません。
イデオロギーとは政治的、経済的システムを基礎とした観念的な考え方の集合体をいいます。イデオロギーはいわば現実とは離れた理想であり、空想であり、それゆえ同時に強い信念として見られています。ある考えが正しいと強く信じる人にとって、その考えに同意しない人々は往々にして敵とみなされることが多いです。ゆえにイデオロギーは闘争を生み、戦争や社会不安の原因をつくるといわれています。問題はイデオロギーを信念として持つことが、他を排除しようとする攻撃的な心理に発展しやすいことです。
宗教とは何らかの神聖で絶対なものへの信仰や儀式などを軸とした教義などをいいます。宗教は時として人々の心に強い影響力を持ち、それゆえ場合によっては宗教を信仰する人々が社会的に異常な行動をとったり、宗教間の対立が激しくなって戦争が引き起こされたりすることがあります。宗教は世界平和への助けになることもあれば、世界平和に対する妨げになることもあります。できれば宗教には人々の対立をあおるのではなく、世界平和の助けになるよう、人々の心に働きかけてほしいものです。
祈りとは神仏に願うことをいいます。世界中のすべての人々が世界平和を願って神仏に祈れば、ひょっとしたら世界平和はすぐに実現できるかもしれません。排他的ですぐに他人を攻撃しようとしたがる人々がいなくなり、素直でまっすぐに神仏に向き合い、ひたすら祈りの心をささげる人々が増えていけば、紛争や対立は少なくなるかもしれません。祈りの心を持つことが世の中を変える力となるのであれば、ぜひとも多くの人々が祈りの心を持つべきでしょう。
差別とはけじめのことであり、扱いや待遇に差をつけることをいいます。何かをした結果を、人は受け取ります。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあることでしょう。良いことをした人と、悪いことをした人が差別されるのは当然かもしれません。しかし、時として人は理不尽に扱われ、不当な差別を受けることがあります。そんなときは、人は差別そのものを恨んだり、差別した人を憎んだりしがちです。差別されたことによって、恨みや憎しみが人の心に発生するのです。
情報とは何らかの事件があったときのその状況・実情・途中経過についての知らせをいいます。また扇動とは何か行動をするように他人をそそのかすことをいいます。情報は往々にして断片的であり、非連続的であり、未完結です。場合によっては意図的に偏った情報や、間違った情報が流されることがあります。意図的に偏った情報、あるいは間違った情報によって、暴動や騒乱、場合によっては戦争が起きることがあります。また、情報そのものは大きく間違っていなくても、それを使って扇動された人々が異常な行動を起こす場合があります。
人権とは人間が生まれながらに持つ権利をいいます。生れ落ちたとき、全ての人に人権が与えられています。ただし多くの場合、人は生まれ育った環境の制約条件に左右されながら生きることになります。必ずしもすべての人間に等しく人権が守られるとは限らないのです。しかし、国家や社会によって人権が不当に制限されるとしたら、それは大きな問題です。人権は必要である限り守られるべきものです。人権に対する不当な制限はできるだけ無くしていかなくてはなりません。
陰謀とは秘かに企てる悪だくみをいいます。世の中には、表向き良い人のふりをしながら、陰でよからぬはかりごとをたくらんでいる人たちがいます。陰謀は人々の知らないところで計画され、進められます。ただし、陰謀は表に出てしまえば陰謀ではなくなります。問題は、何か社会で問題がおきたときなど、誰かの陰謀だと騒ぎ立てる人たちがいることです。いわゆる陰謀論を騒ぎ立てて誰か特定の人たちを悪者だと決めつけようとする扇動行為が行われ、社会不安の原因になっています。
社会において対立や紛争が激しくなれば、多くの人々が不幸になります。争い事や人々の不幸が発生するのは、何か原因があるからです。人々を対立させ、争わせる原因、人々が不幸になる原因をなくしていけば、それだけ争い事や人々の不幸を減らしていくことができるはずです。短絡的に誰か他人に責任を押し付けたり、社会そのものを破壊し否定するのでは根本的な解決にはなりません。その本質的な原因を見つけ出し、その原因を解消していく方法を学んでいくことが求められます。
和とはなごやかで仲が良いことです。争いや敵意、憎しみなどを持たないことが和の心です。皆がお互いに仲良くし、さまざまなものをほどよく混ぜ合わせることで争いや不幸を招く原因をなくしていくのが和の思想です。排他的でなく、偏らず、すべてを取り入れる懐の深さが和の思想にはあります。和の思想では一つの正解を人々が信じ込まされることはなく、様々な考えを受け入れつつ自主性が尊重されます。和の思想が中心にあることで、人々の心や社会が整い、やわらぎます。
煩悩というのはちょっとしたはかない想いであり、夢です。夢を持つことは決して悪いことではありません。多くの人々は夢を持ち、夢を実現したくて目標を掲げ、そしてその目標のために努力します。夢は世界を動かします。夢は良い方向に世界を動かすこともあれば、悪い方向に世界を動かすこともあるでしょう。ひとつの夢が実現したからといって人が幸せになるとは限りません。また夢が実現できなかったとき、他人への恨みや妬みの感情を持つ人も少なくありません。